大森一樹 単語


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大森一樹とは、日本映画監督、及び脚本家である。1952年ひな祭り生まれ。

概要

大阪生まれのコテコテ関西人で、現在兵庫県芦屋市に在住。

医者に生まれ、自身も医学部卒で医師免許も持っているが、医者ではなく映画界へと足を運んだしい経歴の持ち

医学部受験のための勉強の傍ら、高校時代から既に自主映画製作も行っており、17歳で初作品『革命狂時代』を製作監督、脚本、撮、編集の全てを自分自身で行い完成させている。
大学時代には映画上映グループの結成や、映画サークル内での映画製作などに熱中していた。それでいて留年しながらも医師免許もきちんと取得するとは、なんという
特に20歳の時には3本もの作品を同時に完成させるりぶりだった。

1975年全なアマチュア製作でありながら、『暗くなるまで待てない』がキネマ旬報ベストテンの21位に選出され、徐々に頭を現していく。

1977年に新人脚本家に与えられる賞の「城戸賞」を受賞し、翌年に松竹でその受賞作である『オレンジロード急行』で商業映画監督としてメジャーデビュー全なアマチュア監督企画、脚本、監督の全てを担当して商業デビューする、という事例は2015年現在に至るまで日本国内では、ほぼ大森監督ただ一人のみの事例である。
この作品は、映画としては必ずしも成功した作品ではなかったものの、新鋭の映像作家として一躍注を浴びた。

1980年京都府立医科大学卒業、さらに同年に自身の医学部在学体験を元に映画として監督兼脚本で作品化した最初のブレイク作品となる『ヒポクラテスたち』が開された。この映画は後にブレイクする役者が数多く出演しているほか、手塚治虫北山修といった「医師」も出演していった。翌年の'81年には2作連続で医療映画監督している。

1981年にはさらに村上春樹原作風の歌を聴け』を映画化。原作ファンからは一部非難があったものの、その独特の映像表現は現在に至るまで語りとなっており、日本を代表するカルト映画の一つとして挙げられる。ちなみに、原作者は良好な反応を示していたほか、監督自身お気に入りの一作だという。

その後、1983年医師国家試験に合格し、医師免許も取得。82年~83年は流石にそのためかこの時期としてはしく一本も撮っていない。

久々監督作となった1984年の『すかんぴんウォーク』では演に吉川晃司を抜。この作品で吉川が演じた民吉川のキャリア初期を代表する役になり、主題歌デビュー曲「モニカ」も大ヒット。民シリーズとして3部作になる大森初のシリーズ作品となった。(しかし、未だDVDにはなってない。併映のアニメ映画は紆余曲折を経てBDになったのに・・・・)

1986年には『する女たち』で日本アカデミー賞優秀脚本賞、優秀監督賞をダブル受賞、演の斉藤由貴女優賞にくなど高い評価を得て商業的にも作品的にも大衆的な評価を確固たるものとした。さらに次回作の1987年『トットチャンネル』では黒柳徹子テレビ明期を描き、芸術選奨新人賞を受賞。

こうしたヒットの連発から、東宝からは絶大な信頼を獲得し、1989年には84年に復活したゴジラシリーズの新作を監督東宝では本多四郎福田純といった専属監督ベテラン特撮監督とともに製作するのが通例であったこのシリーズを新鋭の大森に任せたのは当時極めて異例だった。
一般募から選出された小林一郎によるシナリオゴジラビオランテ」を文字通り「小さなから大きな」へと成長させ、ニューゴジラを描いた『ゴジラvsビオランテ』として開に至る。
当時としては先進的すぎて若干難解だったバイオテクノロジーの脅威と暴走というテーマ性は、プロデューサーゴジラの生みのである田中友幸イチ押しだったものの、観客動員数が前作『ゴジラ(1984年)』を下回ってしまったことからもわかるように、開時には大衆的に理解されたとは言い難かったが、特撮ファンを中心にシリアスゴジラへの回帰と新しいゴジラへの挑戦には采のも多く、開時に子供だった者が改めて成長してからこれを鑑賞してその面さに気付く、ということも多いらしい(なお、田中プロデューサーパンフで「ストーリーシリーズ中でもバツグンに面い」と当時からその脚本を絶賛していた)。

また、この映画で特技監督を務めた川北紘一しくなり、北が大阪芸術大学の講師となったのも大森の誘いによるものだったという。

1991年にはゴジラ最大のライバル復活作品となった『ゴジラvsキングギドラ』を監督タイムトラベルサイボーグ化したキングギドラの登場、前作の超能力三枝未希の続投などといった新要素とファミリー向けのエンターテインメント性を内包したこの作品は大ヒットし、既に大きくなり始めていた第3次怪獣ブームの決定打となり、平成ゴジラvsシリーズ大衆化への足がかりとなった。タイムトラベル矛盾点で未だに結構議論があるが、大森監督く「観ている時には気付かなくて、劇場を出て初めておかしいな?と気付いてもらえれば」という認識だそうな。脚本に回った次回作『ゴジラvsモスラ』は『日本沈没』をえる空前の大ヒットとなった。

なお、後に語ったところによると、ゴジラシリーズでは大河原孝夫監督金子修介監督衣装や画造りに拘るであるのに対して、大森監督衣装や画よりは脚本や演出、編集といったストーリー部分にこだわりを持っているそうである。実際、大森監督映画ゴジラに限らず、複数の人物の出来事を同時並行に描く、という手法が直近作に至るまで好んで使用される傾向がある。

90年代から2000年ごろの大森監督はほぼ1年に1本以上の映画を撮っており、中にはSMAP演という伝説漫画実写映画の『シュート!』や人気番組「ウッチャンナンチャンのウリナリ!!」から誕生した『ナトゥ 踊る!ニンジャ伝説』なども含まれる。

2005年には久々特撮映画劇場版 超星艦隊セイザーX 戦え!戦士たち』を北とのタッグ製作。これが北と組んだ最後の作品になった。

近年は年齢的なことや、大阪での講師業から若干寡作気味ではあるものの、2010年世界のどこにでもある、場所』では群像劇を、2011年津軽食堂』では現代と過去を同時に描いたひとつの家族を同時に仕上げており、健在ぶりを示した。

2015年現在、新作は4年近く途絶えているが、2014年にはゴジラ60周年記念の展覧会『大ゴジラ特撮展』にも顔を出しており、北と共にトークライブを行ったり、ファンからのサインや握手にも気軽に応えていた。
北の寡黙なペース(既に体調がこの時期悪化していた為でもある)に対する、ガハハ笑いの似合う快な人柄の大森には来場者からも好感を持たれていたようだ。

2022年11月15日、急性髄性白血病にて盟友川北紘一特技監督の元へと旅立った。前年には北との最後の作品「装甲巨人ガンボット」のDVD国立国会図書館に収蔵されたり、日本映画専門チャンネルが中心となり、イベントで熱望していた自身の監督した「ゴジラvsビオランテ」の4K版が完成したばかりであった。

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