リンデンリリー(Rinden Lily)とは、1988年生まれの日本の競走馬。栗毛の牝馬。
その競走生命を燃やし尽くして、悲運の騎手に生涯唯一のGⅠ勝利を贈った馬。
主な勝ち鞍
1991年:エリザベス女王杯(GⅠ)、ローズステークス(GⅡ)
概要
父*ミルジョージ、母ラドンナリリー、母父キタノカチドキという血統。
父はイナリワンやロジータ、オサイチジョージなどを送り出し、特に地方向け種牡馬として大活躍した80年代の名種牡馬。
母は川崎競馬場に所属し、1981年の東京3歳優駿牝馬(現:東京2歳優駿牝馬)を勝ったが骨折で早期引退となってしまった馬。仔出しもよく15頭の仔を産んだ。リンデンリリーは第4仔。
母父はスピードを活かした好位差しの競馬で「ターフの天才児」と呼ばれた1974年の皐月賞・菊花賞の二冠馬。種牡馬としては12歳で急逝してしまったためさほど目立った結果は残せなかった。
牝系を遡ると6代母の*シユリリーという馬に行き着くのだが、その*シユリリーの牝系は孫のクインナルビー牝系、すなわちオグリキャップ・オグリローマン兄妹を産んだ名繁殖牝馬ホワイトナルビーや、近年マルシュロレーヌやナミュールを輩出しているキョウエイマーチの牝系がこのファミリーラインに属する。
トキノミノルのライバルであったイツセイや、40~50年代の名種牡馬クモハタの名前が見えるのも渋い。
1988年3月16日、浦河町の向別牧場で誕生。ラドンナリリーの仔は脚が長すぎて身体のバランスが悪いという弱点を抱えた仔が多かったので、逆転の発想で「脚が長い産駒の方がよく走る」と言われていた*ミルジョージをつけて産まれたのがリンデンリリーだった。
*ミルジョージ産駒はイナリワンを筆頭に気性がかなりアレな産駒が多かったが、リンデンリリーは素直な性格だったそうである。
当歳のセリに出されたリンデンリリーは、1000万円という当時としてはそこそこのお値段で落札された。オーナーは「リンデン」冠名を用いた林田秋利。後にエイシンデピュティを管理する栗東の野元昭厩舎に所属した。
※本記事では馬齢表記を当時のもの(数え年、現在の表記+1歳)で記述する。
「君と見た夢」
デビュー~ローズS:挫折と再起と出会いと
ソエ(管骨骨膜炎)に悩まされてややデビューは遅れたが、1990年12月2日、須貝尚介騎手(現調教師)を鞍上に京都・ダート1400mの新馬戦でデビューしたリンデンリリー。デビュー当初の彼女の評価は決して高くなく、12頭立てで単勝16.8倍の9番人気という低評価だったが、ここで5馬身差の圧勝デビューを飾る。
明けて4歳、引き続き須貝騎手と芝1200mの紅梅賞(OP)に向かったリンデンリリーは、ここでも16.0倍の9番人気ながら、直線で内にモタれる様子を見せながらあっさりと突き抜けて3馬身差で圧勝。
これはクラシック有力候補だ! ……と喜んだのもつかの間、直線での斜行が審議となり、結果は13着に降着。前年に導入されたばかりの降着制度の、関西での初の適用例かつ史上初の1位入線降着という不名誉な記録を残すことになってしまった。
しかもこの後ソエが悪化し、結局春は全休。史上最高のメンバーと言われた桜花賞、裸足のシンデレラ・イソノルーブルが勝ったオークスには挑むことも叶わなかった。とはいえ紅梅賞の勝ちっぷり(勝ってない)は鮮烈で、一部では「幻の桜花賞馬」とも言われた。
7月の夏競馬で復帰したリンデンリリーは、新たに武豊を鞍上に迎え、脚元を慮って小倉・ダート1700mの日向特別(500万下)で復帰するも逃げ潰れて4着。続く9月の中京・ダート1700mの平場500万下は逃げ馬を捕まえきれず2着と勝ちきれない。
ここで野元師は芝に戻すことを決断、中1週で中京・芝2000mの馬籠特別(500万下)に向かうと、鬱憤を晴らすかのように4角先頭で上がり最速、5馬身差の大圧勝。
この勝ちっぷりで、本格的にリンデンリリーは最後の一冠、エリザベス女王杯を目指すことになり、除外も覚悟の上でトライアルのローズステークス(GⅡ)に登録。幸いフルゲート割れで無事に出走できたリンデンリリーだったが、武豊がお手馬のスカーレットブーケに騎乗するため、鞍上には新たに期待の若手騎手を迎えた。デビュー4年目、1988年の新人最多勝に輝き、前年のNHK杯で重賞初制覇を挙げ宝塚記念でオグリキャップにも騎乗した岡潤一郎である。岡騎手も春のクラシックでは桜花賞3着・オークス4着のノーザンドライバーというお手馬がいたのだが、故障で離脱したため手が空いていたのだ。
900万条件馬の立場ながら桜花賞4着・オークス5着のスカーレットブーケと人気を分け合って2.9倍の2番人気に支持されたリンデンリリーは、スカーレットブーケらが道中早めに進出する展開を好位でじっくり進め、直線で自慢の末脚を炸裂。早め先頭に立った桜花賞2着馬ヤマノカサブランカをきっちり半馬身差しきり、3着スカーレットブーケは4馬身半ちぎり捨て完勝。重賞初制覇を飾り、エリ女の優先出走権を確保した。
1991年エリザベス女王杯:貴方の夢のために、全てを懸けて
迎えたエリザベス女王杯(GⅠ)。前述の通り、この年の春の牝馬クラシックは史上最高レベルと言われたメンバーが揃っていたが、桜花賞馬シスタートウショウと前述のノーザンドライバーは怪我で離脱。オークス馬イソノルーブルは調整遅れで直行ローテとなり、スカーレットブーケとヤマノカサブランカは前走で蹴散らした。となれば「幻の桜花賞馬」リンデンリリーに人気が集まるのは自然である。GⅠ未勝利の岡潤一郎騎手の経験の浅さが不安視されたものの、リンデンリリーは堂々2.4倍の1番人気に支持された。
人気薄のテンザンハゴロモが逃げ、2番人気イソノルーブルが2番手でそれを追う展開を、リンデンリリーと岡潤一郎はじっくりと中団に構える。前走同様にヤマノカサブランカが早めに上がっていくが、岡はじっと前を射程圏に捕らえたまま仕掛けのタイミングを待った。
4コーナー、テンザンハゴロモとイソノルーブルが力尽きて後退。好位に構えていたリンデンリリーは直線入口ですっと外に出し、自慢の末脚を爆発させる。秋枯れの京都の芝を蹴立てて一気に先頭に踊り出たリンデンリリーを、捕らえられる馬はもういない。後続をちぎり捨て、最後は内にヨレながらも2着ヤマノカサブランカに2馬身差の完勝だった。
僅かキャリア7戦でのエリザベス女王杯制覇は、1980年のハギノトップレディに並ぶ最短タイ記録。初めてのGⅠタイトルを手にした岡潤一郎は馬上で力強くガッツポーズし、リンデンリリーの首筋を叩いて愛馬を讃えた。
――だが、勝利の代償は大きかった。
もともとその瞬発力に対して脆かったリンデンリリーの長い脚は、直線ゴール前で内にヨレた瞬間に既に限界を迎えていたのである。
ゴール後、異常に気付いた岡騎手はリンデンリリーを立ち止まらせて慌てて下馬。前脚を痛めたリンデンリリーは、記念撮影にはなんとか岡騎手を乗せて参加したものの、その後すぐに馬運車で運ばれていき、表彰式に彼女の姿はなかった。
診断は右前浅屈健不全断裂。競走能力喪失。
文字通り、競走生命の全てを燃やし尽くした勝利だった。
そして、岡潤一郎にとっても、これが最初で最後のGⅠ勝利となった。
1993年1月30日、京都競馬場第7レース。オギジーニアスに騎乗した岡潤一郎は、4コーナーで馬が故障を発生し転倒、落馬。ヘルメットが外れたところを後続の馬に頭を蹴られ、外傷性クモ膜下出血、頭蓋骨骨折、脳挫傷、脳内出血で緊急搬送。2月16日、24歳の若さで世を去った。
道半ばで途絶えた岡潤一郎とリンデンリリーの物語は、17年後、2005年エリザベス女王杯での川島信二とオースミハルカの一世一代の大逃げへと繋がっていくが、それはまた別の話である。
引退後
繁殖入りしたリンデンリリーは11頭の仔を産み、第7仔ヤマカツリリーは2003年のフィリーズレビューを勝利、桜花賞・オークス4着、秋華賞3着という実績を残した。
2007年頃から脚の状態が悪くなり、2008年には歩行困難となって、5月5日に20歳で死亡。牝系の血は現在も繋がっており、2017年には曾孫のコマノインパルスが京成杯を勝利。2023年にはリンデンリリーを4代母に持つメイドイットマムが浦和桜花賞を勝利するなど、ちょくちょく活躍馬が出ている。
リンデンリリーは天国のターフから、岡騎手と一緒に子孫の活躍を見守っていることだろう。
血統表
*ミルジョージ 1975 鹿毛 |
Mill Reef 1968 鹿毛 |
Never Bend | Nasrullah |
Lalun | |||
Milan Mill | Princequillo | ||
Virginia Water | |||
Miss Charisma 1967 鹿毛 |
Ragusa | Ribot | |
Fantan | |||
*マタテイナ | Grey Sovereign | ||
Zanzara | |||
ラドンナリリー 1979 栗毛 FNo.7-d |
キタノカチドキ 1971 鹿毛 |
*テスコボーイ | Princely Gift |
Suncourt | |||
ライトフレーム | *ライジングフレーム | ||
グリンライト | |||
ヤマニガーサント 1964 栗毛 |
*ガーサント | Bubbles | |
Montagnana | |||
イチクニヒメ | イツセイ | ||
クニハタ |
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関連項目
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